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はんなりおしやす あんた、おきもんに使われてんのか?

   あんた、おきもんに使われてんのか?

 母を私が、引き取って一緒に住むようになって、間もなく

退屈しのぎに私の店へ遊びに来た時のことです。私は、

ひっきりなしに鳴る電話の応対に追われていました。昼

になり、母にも昼食の用意をしながら、食事もそこそこに

電話が鳴ると、いの一番に立ち上がって、応対していました。

他のスタッフにしても、自分が応対するより、私がする方が

的確な答えをすると考えていたようでした。

 どんな時も、慣れない答えをするよりも、みんなは私の答え

を待っていることを知っていましたから、それが当たり前に

なっていました。遠く外国から、お尋ねの時もありますので、

時間を大切にしたいなと思うものですから、狭い会社の中の

こと、取り次ぎよりも、ダイレクトだとも思い、取り決めたこと

もないのですが、そのようにしていました。それをどうかしよう

と考えたこともなかったのです。ふと見ると、母は、いつの間

にか、家の方角へ向かって歩いていました。母は、忙しくして

いる私を煩わしてはと思って帰ってくれたんだと思いました。

 家に帰るなり母は、『あんた、おきもんに(使用人)使われて

んのか?』と不機嫌に言うのです。私は、『えっ、』と言っても二

の句が告げませんでした。どう答えたらいいのか思いまどいま

した。母の頃とは、時代も価値観も変わってきていますが、今

のままでいいとは思いません。どだい一人でできるものは知れ

ています。スタッフのレベルアップ以外ありません。

 これは、代表者である私の責任です。母には、『今日は、忙

し過ぎたんや。取るのが早い私が、ええカッコして取り過ぎた

かもしれんな。』と言い訳しました。言ったものの、これは、根

本的に解決しなければ、これからのひまわりの発展はありま

せん。私は、早速にミーティングで、スタッフの講座参加と電

話応対のトレーニングを強化しました。以前から、個々には、

トレーニングしていましたが、バラつきは否めません。基本的

に一般電話は、私は取らないようにして、難しい相談電話をす

るようにしました。それからしばらくして、相談電話もスタッフ

ができるようにトレーニングしていきました。そうなると、スタッ

フのレベルが、少しづつアップしてきました。やはり、母は私

の抵抗勢力です。私は、以前の仕事場で、嫌というほど女の

職場の狭さを経験してきましたから、ちょっと履き違えていた

かもしれません。自分が動けば、周りも動くものと勘違いして

いました。経験のないものは育たないのです。誰かがしてしま

うことは、その経験を奪うことでもあるのです。日本の社会は

特に”気を使うこと”と”親切にすること”が美徳であるとする

風土があります。これは、人生を狭くする要素も伴います。

 それとお互いに分かり合うものという前提が暗黙のうちに

出来上がり、はっきり表現することがしばしば省かれてしま

うおそれもでてきます。この習慣を打ち破るのは、勇気がい

ります。信頼と根気と情熱がものをいいます。

はんなりおしやす 行動派の母

     行動派の母
 以前母のことで、材料や調味料は、決められ

た所のものを買う習慣があると書きましたが、その味もどう

やら時代と共に変わってきていました。正面市場の赤だし

味噌もおやめになり、ヒガシマル醤油もキッコーマン醤油

も母の記憶している味ではなくなってきていました。そんな

頃私が、自然な醸造の味噌、醤油、そして、合鴨農法の米

をもっていきました。”さすが”です。それを口にすると母は

、次にはなくなると『あんた、この間の醤油、持ってきてんか

!』というのです。私は、親からお金をいただこうとは思いも

しないのですが、母は、『一回めはもうとくけど(頂く)これか

らは、お金払いまっさ。そやないと、身につかん。美味しもの

でも、体が喜ばん』とはっきりしたものです。母は、余分に何

でも買っておくのを嫌がる性質(たち)でしたから、ホンの少

し前に言うのです。私は、出張などで留守にすることもしば

しばあり、すぐにはいけないことがありました。今日のよるは

母の所へ行こうと思っていた日、母が、空になった一升瓶を

さげて、京阪電車とバスを乗り継いて、私の店にやってきた

のです。私は、びっくりしました。時間がかかることもさること

ながら、公共の乗り物に乗って、カラの一升瓶を下げてきた

のには、恐れ入りました。私は、深くお詫びを言って、母をク

ルマで送ろうとしましたが、『あんたは、仕事おしやす。わては

、大丈夫や。』というのです。私は、『いくら何でも、重いし、そ

れにその歳でなんかあったら私が、困る』と言って、仕事が、

一段落するまで待ってもらい、母をクルマで送りました。それ

からは、どの期間でなくなるか検討をつけて、私のスケジュ

ールも考えて、早めに持っていくようにしました。それは、母

が、確か85歳だったと思います。行動派で、自由人の母を持

つと、子供が大変です。そういえば、叔父(母の兄)も97歳ま

で、自転車に乗っていて、ご近所さんから”おじいさんが自転

車に乗ったはるのが危ないという苦情が出て、家のもん(人)

がやめさした。”というのを聞いたことがありました。この叔父

は、100歳まで長生きしました。母は、98歳でなくなったこと

を始めにお話ししましたが、いずれにしても、母の兄弟は長

生きしました。

はんなりおしやす一緒に住んでんか

     一緒に住んでんか
 
 母の状況が落ち着き、ひとり暮らしが可能に見え始めた頃

、母が、突然私に『あんた、ワテと一緒に住んでんか』という

のです。私は、一瞬”どうしょう?”と、思いました。しかしなが

ら、『ちょっと、待ってな。それには、主人とも、子供たちとも、

相談する必要があるので……。』というと母は、『もう子供らも

大きなってるし、旦那も長いことなるし、もうエエやろ』という

のです。仕事場も遠くなるし、私が、出張などでいなくなると、

また探しまわるような事にもなり、かえって混乱するのではな

いか?これも親孝行してこそなのではないか?とか様々なこ

とが、一瞬に駆け巡りました。とにかく母に『ゆっくり考えさして

』と言って、家に帰りました。その夜から、しばらくは眠れない

日が続きました。

私が、母と、住めるのか考えてみればみるほど、困難さが明

らかになっていきました。市営住宅は2部屋です。私が、仕事

の調べものや日々の雑務をしながら、母の日常生活をフォロー

することは、まずもって不可能に近いと思いました。私が、仕事

をやめて一緒に住むなら可能かもしれませんが、そんなことは

できません。社員もいるし、大勢の人々への責任もあります。

 悩みぬいた挙句、ふとアイデアが浮かびました。母はよく”自

分の力量に合うやり方と内側から、本当に思う心に聞くことや”

と言っていましたから、ホンネと向き合ったのです。すると、私は

、4人兄弟なんだと思い出しました。今まで、自分一人のように

母を見なければと思っていたけど、兄弟とも相談しようと思いま

した。みんなに知って欲しいことと状況を話しあって、できること

はどんな事でもしてもらおうと全員に声をかけました。私は、自

分の状況も言いながら、母にとってもどうすれば一番快適かを

みんなで考えてもらいました。兄弟とも母と、一緒には住めない

ことは、今までに実験済みでしたから、一週間づつ交代で、土

日を母と、暮らすことにしました。4人なので、都合のつかないと

きは、変わってもらいながら、月一回なら、なんとかなるという

結論に達しました。私は、もう嬉しくてなりませんでした。今まで

女一人の寂しさと女が見なくてはいけないように思うときもあって

、なかなかホンネで話し合えなかったのに母の一言で、悩んだ甲

斐がありました。兄弟とも母の人生の終をみれるようになってい

きました。本気は人を動かすと思いました。何のわだかまりも持

ちませんでした。私たち兄弟を疎遠なように感じたこともありまし

たが、一切のこだわりを持たずに話しあって、ただ、素のまま母

の暮らしの保証を考えてほしいと申し入れました。

 このことで、私たち兄弟もいろんな事があるんだなあということ

もわかるようになりました。母のお陰です。

はんなりおしやす 雪の中母を探して

     雪の中母を探して
 斑にぼけ始めた母を引き取って1~2ヵ月たったある冬の

ことでした。夫の親戚の家へ法事で出かけた時のことです。

長い時間、お経を聞いているのもしんどいと言う本人の意

志を尊重して、母を一人我が家に置いて出かけました。夜

には帰ってくるので、好きな本を出しておいて、”夜には帰っ

てくるので”と、言っておきました。私たちは少し早めに6時

過ぎに帰ってきましたら、戸は閉まっているのに中には母は

、おりません。どこか出かけたのかもしれないと、近くの公園

や店を探してみました。雪が降ってきて、冬空独特のどんよ

りと灰色の空が広がりつつありました。時間と共に不安はつ

のりはじめ、だんだんと私の心は焦り出しました。後悔の念

も湧いてきて、無理やりでも、連れて行っていれば良かった

んだとも思いながら、探し回りました。弟の子供の宮参りの

時とは、状況は違います。住み慣れた所でもありません。普

段から、外出を好む方でもないのです。決まって散歩をする

人でしたから、特別な時以外は、外出より家の中で、縫い物

や本を読む方が好きな人でしたから……。歩ける距離も考える

と、探せるに違いないのです。家族全員で手分けをしましたが

、見つかりませんでした。2時間近く探しまわり、留守番に下

の娘を一人おいて、更に探し回りました。もう9時をまわってい

ました。寒さとひもじさも感じているだろうと思いました。泣い

てはいけないと思うのに情けなく、悔しさと後悔と心配が入り

交じって、涙が出て止まりませんでした。まだその頃は、携帯

電話も持っていませんでした。一度家に帰って、母の安否も

確かめようと戻りました。すると母は、バスに乗って自分の家

に帰ろうとして、乗り継ぎを間違え、一つ先の駅で迷い、警察

に保護されていることが、判りました。大急ぎで、母を迎えに行

きました。母は、眠そうにしていました。そして、私に『何処いっ

てたんや。この寒いのに』というのです。私は、『よかった、よか

った。お腹へってへんか?』と聞いたのです。すると母は、『さっ

き、あんまりお腹へって、ここで、よばれたんや。』というのです。

 私は、安心と母のたくましさに思わず泣き笑いをしてしまいま

した。その事をきっかけに再び、母を一人暮らしに戻しました。ど

こまでいっても、母らしい暮らしの保証をしていくことが大切なん

だと思いました。安全が私たちの側からのみ考えるのではなく、

いつでも母らしい暮らしの中で、どう保証していくかが大切なんだ

と思いました。

はんなりおしやす 当事者にまかしとかな

  当事者にまかしとかな

 私が、高校生位のときだったと思います。自治会の中では、

大きな揉め事が持ち上がり、ほとんど毎日のように組長以

上が集まり、会議を開いていました。その時母も組長をして

いました。(ヤクザではないですよ!7~8軒のまとめ役)2

日ほどは、母も会議に出席していました。その内行ったかと

思うと、すぐに帰ってくるようになりました。7日ほどして、行か

なくなったので、解決済みかと思って母に訪ねました。『なん

か、大事なことが持ち上がってたんか?』というと母は、『いや~

誤解やろ。あんなことは、当事者と、調整役だけで話したほう

がええのや。だんだん事が大きなって、規模が広がって、解

決が難しなるだけや。』という返事。しばらくすると、『中村さん

、早う来て!今から決めてしまはるさかい。』と町内会役員が

呼びに来ました。それで判明したのは、母は途中で帰ってき

ていたのです。間もなく、母が帰ってきたので、再び、聞いて

みました。『ああ、どうやら解決したようやな。これでしばらく行

かんでエエのんや。』とそれでおしまいでした。私は、気にな

りましたが、母の性格では話してくれそうにないので、そのま

まになってしまいました。

何事に限らず、うわさ話や流言飛語に囚われない母は、”

の噂も七十五日
。”といつも、蚊帳の外を決めていました。


私は、モヤモヤしながらも、いつの間にか、忘れてしまいま

した。このことも後々の私の神経質を解決する知恵に活か

せるようになりました。どんなに大変そうに見えることでも、

時間”と、いうものがいつの間にやら解決の糸口になり、

収まっていくのです。”あ~あ、小さい人間は、時間かかる

なあ”と聞こえてきそうです。 
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ぴのこ234

Author:ぴのこ234
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勇気と希望と元気の源
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